日本書紀と舎人親王 第1回

2020年1月15日に行われた第1回定例会は、関根先生のお話を伺いました。
テーマは「日本書紀と舎人親王」。
今回は「日本書紀」の成立の背景、「益封」と「親王」についてのお話を伺い、舎人親王の謎の多い登場のし方を確認するところまでを勉強しました。
以下、要約です。

【日本書紀と舎人親王】

『日本書紀』について

 西暦720年に誕生し、今年は1200年目にあたる記念の年。 私たちが読む場合は岩波文庫版が現代語訳もついていて読みやすいし、実際研究者もよく参照している。

平城京遷都710年?

平城京遷都は710年に行われたと私たちは学校で習ってきた。しかし、平城京の大極殿の柱の下から和銅年間の木簡がみつかり、大極殿が藤原京から移設されたのは715年であることが明白となった。しかし、いまだその事実は広まっていない。 天皇が政を行う施設が大極殿なので、715年こそが平城京の始まりということになる。

古事記の編纂は藤原京で行われた

古事記は712年に編纂が完了したとされる。上記の平城京遷都の状況を鑑みると、古事記の編纂は、遷都が中途半端な平城京で行われたと考えるよりも、引き続き藤原京で行われていたと考える方が自然だと言える。

『日本書紀』を知るには『続日本紀』を読んで政治状況を把握するべき

そのような古事記を取り巻く状況と同じことが日本書紀にも言える。編纂された時期の政治状況をよく把握したうえで、日本書紀を読み解く必要がある。編纂された時期のことをまとめたのが『続日本紀』であるので、続日本紀を研究しながら『日本書紀』の編纂を考えていくべき。

耶麻騰(ヤマト)

「日本」という字の注として【日本。此云耶麻騰。下皆效此。】とある。つまり「『日本』という表記は『ヤマト』と言い、以下これにならう」と書いてある。当時「日本」という表記はヤマトと読まれていた可能性が高い。ということは書名も「ヤマトショキ」「ヤマトキ」だった可能性が高い。

律令国家日本と平城京

「日本」という呼び名の成立は簡単に特定できるものではないが、律令国家として日本が成立したということは言える。律令が完成し都が出来て国家としての形を整えた。701年に大宝律令は藤原京で完成した。藤原京がそれにふさわしい都であればそのまま藤原京を継続したはずであるが、わざわざ平城京に移ったということは、律令をもとにした国家にするための都を作る必要があったから。それを主導したのは一般的には藤原不比等と言われている。しかし、流れを見てみると、主導したのは石上麻呂で、不比等はそれの後継者。さらに不比等の後継者は長屋王である。

石上麻呂について

《資料1》「石上麻呂は律令制度を構築、日本建国を果たした。」

石上麻呂が日本書紀に初めて登場するのは壬申の乱の時。敗者の大友皇子に付き添い、最後を看取った人物として登場する。つまり日本書紀を作った側の天武天皇の敵側の重要人物として登場した石上麻呂がその後数年で新羅大使になり、708年に左大臣になるまで活躍し、昇進を続けていく。このような事実上のトップの人物を無視して歴史を語るということがとてもおかしいことと思える。

「益封」と親王

石上麻呂の記述を『続日本紀』で追っていくと、しばしば「益封」という言葉が出てくる。さらにこれが3人の親王にからんでいる。3人とは舎人親王、穂積親王、刑部親王であり、みんな天武天皇の子供である。また、この並びの反対の順序で太政官事に就任している。

左大臣石上麻呂の陣容

資料1に載せた組閣陣容は、続日本紀の708年に石上麻呂が左大臣になったときの組閣の記述を順番にならべたもの。地方の並びの半分に赤を塗ったが、いわゆる東国に固まっていることがわかる。左大臣から順番に並んでいることより、この組閣記述は重要なものを先に持ってきていると考えられ、全国の中で東国地域が重んじられていたことをうかがわせる。そして、この陣容で平城遷都が決定され、710年~715年に実際に遷都が行われるわけである。

「親王」について

続日本紀で「親王」を検索してみると、個人に対して身分として「親王」を付けていることがほとんど。ところが日本書紀では個人につけるのではなく、天武天皇の息子を表す名詞として「親王」という言葉が出てくる。

「益封」について

「親王」と対になるような使われ方をしている言葉に「益封」がある。日本書紀には「益封」は登場しないが続日本紀に11回使われている。最初は704年、最後は724年。長屋王が左大臣になる直前まで。実質的には不比等が亡くなったあとはこの1回のみ。つまり、石上麻呂と藤原不比等が政権を取っていた時の施策だったと言える。石上麻呂は天武天皇の反対派の出身であるが、それが政権のトップになったとしても敵対者を全員粛清するわけにはいかない。その代わりに自分のところに取り込む目的で「益封」というものを使ったのではないか。

「知太政官事」について

知太政官事は左大臣、右大臣の上に位置するが、政権全体を象徴するようなポジションだったと思われる。知太政官事と親王を検索すると、まず刑部親王が就任する。刑部親王が亡くなるとその年のうちに穂積親王が就任する。715年に穂積親王がなくなる。その後知太政官事不在の5年間を経て720年に舎人親王が知太政官事になるが、それは不比等が亡くなった翌日であるところが注目だ。

舎人親王について

舎人親王は麻呂、不比等の現役時代には重用されなかった。これは今の段階ではクエスチョン。「舎人」という名前は下級官吏の名称である。謎が多い。この謎について次回読み解いていきたい。

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